妊娠。
子どもたちが生まれる。
成長する。
あまりにもあたりまえなことだと思っていたことは、
ほとんど、全然あたりまえじゃないし、みんな人それぞれだからから答えは1つじゃない
と言うことを女性は自分の身をもって体感する。
でもそれに気づかないままに、働かなくちゃとか頑張らなくちゃとかわたしだけのわがままだと思われたらどうしようとかってなりがち。なりがちだと思う。
でも、全ての変化が尊いことで、必然だと気づいたとき、新たな地平が見える。
ーー
息子が小さい頃に描いた絵を一番広い寝室に飾っている。
卵が割れて、新しい世界が生まれてくるような絵。すごく素敵だなと何度見ても感心しちゃう。
ひとりひとりの中にちゃんとある、世界。
これがメルヘンと言われる世界で誰しもにあるそれぞれの持つ世界観。
ここを壊さないで育んでいけたらいいなと本気で思っている。オトナも。こどもも。
そうしなくてはいけないってことじゃなくて
そうしてもいいよ
と思ってる。
成長するにつれて経験値で予測するようになって
自身の感じ表している小さなさざなみを、気に留めなくなってしまう、、のかな。
とはいえ
極まって転ずる。
それも必然なのかも。
寄り道も無駄ではないし。
そもそも無駄ってワード自体、何のためにあるんだろう。効率の反対語としての存在?不思議。おもしろい。
言葉が生まれる前からあった世界のイメージ。
頭の中なのか胸のあたりからなのか。天から降りてくる感覚ってことも。
それが風景の時もあれば言葉の時もある
閃き。
この絵は、左上が一部ちぎれている。
随分前に息子自身が破った。
「ぼくなんてどうせ」が体現された出来事。言葉にならない行動。
息子を思うばかりに、先回りして痛みや小さな挫折の数々をできる限り軽減しようと、その機会を奪っていた。
この方がいい、これがいいんじゃない?とさりげなく道を示すことが親の役目だとさえ思っていたから。
自分の背中を見ていることには気づかず頭で考えたことばかり伝えていた、あの頃。
親として、本当に未熟だった。
誰も助けてくれる人はいないと崖っぷちで踏ん張っていた。いつも私ばっかり、なんで?と。
10年位かかってようやく、違和感のある不要なものを手放したり、認めたり受け入れたりできるようになった。そのための努力をしたというより、ひたすらに自分の興味の赴くほうへ自分(つまりピョン吉)をゆるしていったら、全てが変わってきた。
だから今ならわかる。
そのひとだけができるそのひとの経験を奪わない。
ただひたすらにそこ。
そして親としてできることがあるとしたら、いつでも帰れる安心の場を用意することだろうなと。
それは、親も自分を謳歌しているという安心感も含むし、背中を見ているとしたらわたしが生き生きと暮らすことは結局影響を与える、かもしれない。
やぶったあの当時、すごく切なくもどかしい気持ちでこの出来事を受け止めて、いつかちぎれた絵を貼り直そうと思いつつちぎれた絵の端切れも保管したまんま時が過ぎた。でもちゃんといつでもそこに飾っていた。
息子も私も、今は違う地平にいる感じがする。
無事、立ち上がった感。
別々の世界を持つ別の人間として親の私ができること。
と言うかそもそも、オトナとかこどもとか関係なく人はみな、死ぬまで成長するんだと思う。
いうなれば
こどもたちの眩しいくらいの日々の小さな成長は、完全に、不意に、親を成長させてくれている。
こどもたちの成長にまつわる冒険心と同様に、いつもいつまでも変化を謳歌して満喫していくことができる気がしている。
(成熟はまた次のフェーズの可能性とピンチをはらんでいるところが興味深い。)
いつからでも遅くない。気づいた時から。
内なる平和。
自分の中にある、庭を育んでいくこと。
そして答えはひとつじゃないから
あらゆる世界観の中で、出逢いを楽しんで違いを面白がっていけたらいいなと思う。
それぞれに。
愛とともに。

